ー生きるとは
私は、今こうして生きている。大地からの恵みを受けて、ありがたく頂戴している。海の生き物だって、ありがたく食させてもらっている。生きることの喜びを、みんなで噛み分けたい。そんな重いテーマだが、今回は「生きること」というテーマを軸に、今置かれている状況について語ってみたい。
ー生きるという実感
ほとんどの人は、「今生きている」という実感がない。身も蓋もない話になるが、「生きる」という本当の意味を、ほとんどの人は知らないのだ。今こうして私がPCの前に座り、タイピングを打っているのも、生きているという証拠である。狭義的に言えば、大脳の動きがしっかり機能しているということ。
脳の動きが一切停止すれば、PCの前でブログなんて書けないはずだ。脳が正常に稼働し、フル回転しているからこそ、こうしてブログを書ける。
だが、生きるというのは、そもそも定義が曖昧である。有史以来、人類は狩猟採集をし、サバイバルに慣れた。(オスの場合)メスと交尾して、子孫をもうける。こうして人類は発展してきたのだ。それが、今日に至るまで続いている。これは、人間が生み出した奇跡の産物としか言いようがない。
身の回りにある道具を使い、畑を耕したり、井戸を掘り当てたりして、人類は生き延びてきた。過酷なサバイバル生活にも耐え忍び、人類は命をつなげてきた。
ー生きるの存在意義
しかし、こうは言っても「生きる」ということがそもそもわからない。自分はなぜ存在しているのか。人間は感覚器を通して、呼吸や排泄、物を掴むといった本能的行動に出る。でも、それは一体誰が用意したプロセスなのか?
なぜ目は2つあって、鼻は1つなのか?外界から入ってくる刺激に対して、なぜ人間は反応するのか?そもそも、人間とは何なのか?ここまでくると、もはや「存在論」にまで発展する。
生きることの喜び…。それは今を楽しむことなのであろうか。この世に生を受けたからには、精一杯人生を楽しむこと。
これは日本の美徳ともいえる。
しかし、現実はそううまく運ばない。途中で計画が頓挫したり、進めていたプランが崩れるなど、必ず「停滞期」は存在する。
それをいかにブレイクスルーして、乗り越えられるか。
一生涯楽しめるのなら、それは「幸せ」と言えるだろう。しかし、幸せを噛み分けるには、必ず「失敗」というプロセスを介する必要がある。
失敗を繰り返して、人間は学ぶことの大切さを知っていく。
失敗を学びに活かせるのは、人間ならではの強みだ。
失敗ばかりの人生なんて、つまらない。つまらない人生に、わざわざ時間を割く必要はない。
だからこそ、「生きる意味」という疑問が浮かんでくるのではないか。これは人類の永遠のテーマと言える。
私がこうしてブログを書いているのは、文章を書くのが好きだからに他ならない。生きるという実感を通して、今も私はブログを書いている。この世界に存在していなければ、そもそもブログなんて書けない。
生きるということは、それだけ重要な意味合いを持つ。生きることに疲れ、自殺に走ってしまう人が多いのも、幸せを噛み分けていないからだ。
幸せは、自分の手で掴みにいくもの。神が与えてくださったフィールドで、我々人間は幸せを噛み分ける必要がある。
生きることに感謝し、今日もブログを更新したいと思う。