いつか訪れる「死」。
来るべき死に備えて、遺言書を作成したり、事前に葬儀社との費用を見積もっておいて、死に向かう準備をします。
しかし、肉体も精神も完全に消滅してしまう「死」は、私たちが想像する何倍も恐ろしいものです。
十分な備えをしていたとしても、いざ死期が迫ると恐怖を感じる…。その経験は誰でもあるでしょう。
なぜ「死」に対する恐怖があるのか。それを本稿では深く掘り下げたいと思います。
ーなぜ人は「死」を恐れるのか
まず死には、主に3つの分類があるといいます。
1つ目は「三人称の死」。
これはニュースで報道されるような、見知らぬ人や第三者の死のことを指します。
2つ目は「二人称の死」。
いわゆる近親者や直系尊属による「身内関係の死」のことを指します。
前述した三人称の死よりも身内に関わる死なので、事態を重く受け止める方は当然多いでしょう。
葬儀の手配や、出棺、精進落とし、お香、費用の見積もりなど、自分のできる範囲で故人を悼む用意をします。
特に同居した時間が長かったり、親交の深い身内の死に立ち会うのは、心から悲しいことでしょう。
この時点で、他人事とは思えないはずです。
そして最後、3つ目は「一人称の死」。
これは文字通り「自分自身の死」です。
具体的には、自分の生命がなくなること。
これは長年人類が追求してきた最大のテーマであり、たびたび議論の俎上に上がってきました。
まず、死後はどこへ行くのか?輪廻転生は本当にあるのか?自分の魂はなくなってしまうのか?
あらゆる疑問を問いかけ、今なお未解明の域にある「死」。
自分自身の死となれば、もう他人事ではありません。
仏教用語で「死生観」というものがありますが、これは「死に対する哲学や考え方」のことを指します。
昔は聞き慣れない言葉でしたが、今では話題の一端を担うホットなワードです。
あらかじめ「自分は死ぬことをわかっている。だから、今を精一杯生きたい」という死生観を持っていれば、いずれ来たる「死」に対しても十分な備えができるはずです。
しかし、人間の場合、いつ何が起こるかわかりません。
人生には想像もつかないアクシデントがつきものです。
不慮の事故で突然亡くなったり、死に対する備えが十分できないままこの世を去ってしまう人は多いものです。
いくら崇高な死生観を持っていたとしても、突発的に起こりうる「死」には、対処が追いつかないでしょう。
家族に別れを告げることもできないし、お礼を言うこともできません。
あらかじめ死期がわかっていれば、死に向かう準備もできるはずです。
アメリカ人はむしろ「自分の死期がわかってるほうがいい」という考え方を持っており、日本とは違った死生観を持っています。
人が死を恐れるのは、肉体的な苦痛も関係しているでしょうが、それ以上に死後の世界がわからないといったことが大きいでしょう。
人が向かう場所は、光と希望に満ち溢れた、魂のエリア。
しかし、そのような極楽浄土は、すでに定員オーバーしており、腰を下ろす場所がない。
このように、死の先にあるものは決して幸せな場所ではない、という見方も少なからずあるのです。
死後の世界は「天国」と「地獄」に分かれ、徳多き人ならば天国。逆に罪多き人ならば地獄。といったように区分されてきました。
そう教えられた人は多いでしょう。
そもそも死後の体験ができる技術が、この世界にはありません。
臨死体験というものがありますが、これはあくまで仮想上の体験です。
催眠療法を利用した一時的な「仮死」状態を作ることで死後の世界を見る、というものですが、これも被験者の主観によるところが大きく、実証性は皆無です。
いつか訪れる死に、十分な備えができて、死後の世界に向かう準備ができるかどうか。
それができていない人の方が多いのですから、死に対して恐怖心が湧くのも無理はありません。
ー生命とは何か
私の場合、ふとこう思うことがあるんです。
「なぜ人間は生きてるのだろう。そもそもなぜ私という人間は存在して、手足を動かしたり呼吸をしたりしてるのだろう。」と。
不思議ですよね。母体の胎盤を通して生命が誕生し、それが妊娠というプロセスを介して母体の外に出される。
いわばこれが「生命の始まり」なんですよね。
その後赤ちゃんはみるみる成長し、親の庇護下で生きるために必要なスキルを身につけ、社会の荒波に漕ぎ出します。
笑う、怒る、悲しむといった感情も芽生え、社会的に自立するために必要な「自我」「アイデンティティー」というものも誕生します。
この一連のプロセスを総称して、私は「生命」と呼んでいます。
この生命が断絶する機会があるとすれば、肉体的な死(心臓の拍動の停止・瞳孔反射の消滅・脳機能停止等)、精神的な死(自我・アイデンティティの消失)などが生じた場合。
人は耐え難い苦痛を感じると、悲しさや辛い感情を心の奥底に押し込めます。
しかし、心の回復が追いつかず、精神的に疲れ切った場合、どのような行動に走るでしょうか。
それは「自殺」「オーバードーズ(薬物摂取)」「社会的犯罪」などの主な3つに絞られます。
いずれも社会通念上受け入れられない行為ですが、特に自分を死に追いやる「自殺」は、生命を奪うことと同義。
生まれ持った体を傷つけ、自ら命を絶ってしまう…。
そう考えると生命とは不思議です。
人は痛みや苦しみを伴わない死、いわゆる「ピンピンコロリ」を好む傾向があります。
しかし、現実はそううまくはいきません。
大抵は病気の果てに苦しんだり、痛みを伴う延命施術を受けて生きながらえたり…。
なかなかポックリいけないのが現実です。
だからこそ前もって自分が死ぬ時のシチュエーションを想像しておき、死に対する備えを十分にすることで少しでも苦痛を和らげる。
あらかじめ死の段取りを踏むことで、恐怖心を拭い去る。
生命とは不思議ですね。