ー人嫌いが治らない
日本は何億ともいえる人口に溢れている。どこ行っても、見渡す限りの観光客。もうウンザリだ。私が住む北鎌倉では外国や修学旅行での観光客が多いため、あんな狭い道に行列組んでたらそれこそ暑苦しい。鎌倉学園の男子学生が毎日往来し、人通りは常に絶えない。それこそ、すれ違うたびに目を合わせる。そのときの苦痛は計り知れない。
なぜ目を合わせるのが、こんなにも苦手なのか。人と話す際、相手の目を見るのは当然だが、それすらも尻込みしてしまう。「目は口ほどに物を言う」という諺まで存在するほどだから、目がいかに対人関係の構築において重要な役目を果たすかは言うまでもない。
個人面談。これが特に辛かった。マンツーマン&先生と面と向かって、10分ほど会話するというのがこの上なく辛かった。まるで尋問をされてる気分だった。怒涛の質問攻めに、私の精神を擦り切ってしまいそうだった。そのうえ目を合わせろとまで言うのだから、鬼畜の所業である。
だが、わからなくもないのだ。実際、目を逸らすと相手は不快そうな顔をする。外国では特にその傾向が強く、目を合わせない人はあり得ないという認識なのだ。だから外国人と話す際はちゃんと相手の目を見る必要がある。
私はいつか英語の講習を受けたことがあるが、おぼろげながら必死に目を合わせていた記憶がある。今にもうつむき加減になりそうな、ギリギリのラインを攻めていたのだ。相手は外国籍の先生だったため、目を逸らすことは絶対にできなかった。
ー苦手意識の根本的な原因
そういえば、私は以前心理カウンセラーに向いてると言われたことがある。しかし、クライアントと意思の疎通を図り、まして目や身振り手振りなどのジェスチャーを通してクライアントの悩みに寄り添うのだから、私は本当に向いてるのかなと甚だ疑問に思う。
確かに、私はこれまで精神的な悩みを多く抱え、不登校にまでなった。だから同じ不登校児の辛さは十分に理解できるし、そういった人たちを救ってやりたいという願望はある。NHKのあるドキュメンタリー番組では不登校児とそれを救う先生に密着していた。共感できる部分が多かった。登校時間は自由で、休み時間とコアタイムの区別がなく、よりフレキシブルな教育体制を目指していた。
普通の学校では始業時刻・終業時刻が決められており、制服や私服の区別。ブーツの踵がすり減っていないか。ネクタイは蝶結びであるか。曲がってないか。スマホは持参してないかなど、より厳格な教育体制を敷いている。
もし授業中にスマホの着信音が鳴れば、その場で即退場させられる。まあこれはわからなくもないが、それにしても厳しすぎではないか。多くの規定を詰め込みすぎて、逆に生徒たちの自由を奪ってないか。成長する機会を失わせていないか。
少し脱線したが、私の「人と目を合わせるのが苦手」という意識を形作ったのも、元を辿れば学校という見方ができる。生徒たちの自由を奪うような教育をすれば、そうなるのもわかりきったことだろう。まるで戦後教育の賜物みたいだ。
前回の記事にも書いたが、最近では教育の場にchatGPTを導入する手筈も進んでいるとか。これ以上生徒たちの自由な思考や行動を奪えば、もはや学校という教育機関は意味をなさない。むしろ逆効果である。それならリモートや在宅で勉強したほうが、はるかに有意義だ。
自宅にいるという安心感、そして先生や校則といった自分を縛りつけるものもない。自宅だとどうしても気が緩んでしまい、勉強に手がつかないという人もいるだろうが、もはやそれくらいのガス抜きが丁度いいのだ。ゆるっとふわっと系の適度なアットホーム感を求めている。
今の教育法はまるで生徒たちの自由を奪い、思想統制でもしているかのよう。生徒たちの健全な育成のためにも、学校には大幅な変革が求められている。
……だがそれでも変わらないのが日本という国だ。議決とか投票とかわけのわからない多数決システムで採否を決定してしまう。余談だが、夫婦別姓はいつ導入されるのか…。私は以前からずっと夫婦別姓の導入を望んでいるのだが、一向に進展の余地はない。日本は何もかもが遅いのである。
だからこそ、日本にはもう少し切迫感を持ってほしい。少子化対策も、もっと早い段階で手を打つべきだったのである。